水島努監督のオリジナルアニメ『終末トレインどこへいく?』(以下、終トレ)は、2024年春アニメのなかでは注目された方だが、放送終了後にネット上で感想を目にする機会はなかった。
主人公の声優はリコリコの千束を演じた安済知佳で、リアルな抑揚は健在だったが、主人公のどぎつい性格を上手く表現できていたと思う。
このアニメは監督のツイートから察するに、納期にギリギリ間に合わせて作っていたらしく、一週間だけ飛んだことがあったが何とか完走した。そうしたライブ感も印象的である。
ジャンルとしてはポスト・アポカリプスもので、電車で終末後の都市を巡る点で『ケムリクサ』に近い。しかし『ケムリクサ』と違ってSF的な構造主義ではない。世界の機構がどうだとかは関心にない。ポスト・アポカリプスものにヒューマニズムを賦活する作品である。それも人類という大きな対象ではなく、友達という小さな対象を主題としている。その意味では、ポスト・セカイ系(破局を迎えた後のセカイからスタートしているので)と呼ぶ方がいいのかもしれない。主人公とヒロインとの関係がこの作品の核になっているし、生贄となったヒロインを救うという筋書きも『天気の子』に似ている。一対一の関係から人間社会への期待を帰納する逆セカイ系的作品。
電車で旅に出る仲間たちもそれぞれの自我が強く、協調性がない。しかし作品が彼らに向けるまなざしはそれでいいのだと首肯しているように見える。それぞれが相手の自律を尊重し、異なる性格や意見を包摂する、多様性を持った集団を提示している。本作は人類への危機感というSF的スケールではなく、社会への危機感が動機になっているように思われる。ここで描かれている関係性は日本的な(きらら的な)同調性ではなく西欧的な個人性に根差しており、それを理想とするところに現状の日本社会に対する批判意識が看取される。しかしそのせいか多少理念が先行しており、感情より理性が重視され、最終回におけるカタルシスも効果としては減じている。『天気の子』では愛が手段になるが、本作ではロゴスが手段になり、人の心理に寄り添えているのか(そこまで降りられているのか)疑問符がつく。もちろんそうしたカタルシスに見られる日本的全体主義を批判する意図があるのかもしれない。
本作は友達との不和から人が信用できなくなり、社会への信頼をなくした個人を、対話によって救おうとする物語である。このリベラルな価値観はガルパンの反省から来ていると思うのだが、ガルパン同様欠点として、水島監督の描く人間はエリートである。人は自分の頭で考え、正しい行動をとることができるという理性主義的人間観があり、終トレの最終回におけるヒロインの改心もその人間観に支えられている。その点ではなろう系に近い。つまり自分が間違っているということは自分の頭で考えればわかることで、感情が邪魔をしているだけなのだという思想がある。最終回の対話も説得的で、何ならソクラテスの問答法に近い。相手に気づかせるという解決法である。
この作品を修正するポイントがあるとすれば、上で述べた人間観で主人公を描かないことではないだろうか。つまり主人公は物分かりが悪く、ヒロインに対して酷いことを言ったという自覚がそもそもなく、両者の不和が思想の違いによるものだとはっきりさせるのである。そうすれば単一の結果に導く理性主義がなくなるし、対話に意味をもたらすことができる。自己の反省ではなく、他者と話し合うことで気づけることがある。そもそもこの作品が扱っている不和とはそうした思想的立場の違いも関係するはずなのである。理性によって常識的な道徳観にアクセスすることができ、それによって解決することができるという顛末ではなく、価値観の対立を焦点とすることで、それまで描いてきた様々な地区の価値観の紹介にも意味を持たすことができるし、それが最後の対話の示唆になる。そしてそれとは別に自分にとってかけがえのない存在だということをヒロインに訴えかけるのである。こうすると社会批判と一対一の物語が総合できるのではないだろうか。
『16bitセンセーション』もそうだが、オリジナルアニメは散らかりがちである。私のブログもまたそうである。