あにこれの掲示板の方でも感想を書いたが、京アニの『日常』を今更見返してみた。
というのも寝る前に動画でも流さないと寝れない程度にはスマホ依存なので、頭空っぽで流せるものでもないかと思い『日常』を選んだのだ。
2011年放送のアニメでリアルタイムで見ていた記憶がある。ヒャダインのOPに一瞬ハマったが、それは私が幼く、ニコニコで流行っているものはすなわち自分の中で流行っているもので、それぐらい同一化していたためであった。今聞くとそれなりにいい曲だが、ハマるほどではない。しかのこのOPよりは独創性があって面白い曲だが、メロディの強さは同じくヒャダイン作曲の『バカテス』一期OPの方が秀でている。
今見返すと、この作品がロボットのなのを主人公に組み立てられていることがわかる。
とはいえ一期は登下校するゆっこたちを目にして高校生活に憧れを抱き、一期最終話ではかせから登校を許されるという大まかな軸があるに過ぎないが、二期からはなのがゆっこたちと友達になり、ロボットであるというコンプレックスをゆっこの言葉で見つめなおすという明確な軸が生まれている。アニメオリジナルなのかどうかはわからないが、ただのギャグの連続に終わらないようアニメの範囲で軸になるストーリーを構成していることは確かだ。
しかしなのの成長が線として描き出されているかというとかなり疑問が残る。なのの悩みは人と違いロボットであることに依っているが、それはかなり特殊な悩みである。広くとって自分の身体に制約を感じるという悩みでいえば、作中ではほかにリーゼント男くらいしかいない。その点では象徴性に欠ける(みおちゃんは運動神経が悪いがそれにずっと悩んでいるわけでもない)。それになのの場合、はかせに改造され体から食べ物が出てきたりすることがギャグになっている。そうなるとあまりなののコンプレックスを深刻化するとはかせの印象が悪くなる。ということもあって、あまり深く陰の部分を出せなかったために最終回に繋げるための線が薄くなったのだろう。しかし、なのの友達ができるかどうかの不安感や、ゆっこたちとの掛け合いがもっと描けていたなら、成長にも説得力が出たはずである。ロボットであることがコンプレックスな自分、そのありのままの自分を奥底から許容できるゆとりを、ゆっこたちとのつながりのなかで獲得できたという流れをもう少し主観的に描かなければならなかった。
背中のねじに表されるような容姿の問題ではなく、ロボットであるというどうしようもない事実について悩む姿も必要だっただろう。みおちゃんがなのがロボットだということに気づいてなさそうなのも、その筋書きにしたいのなら具合が悪い。
ちなみにこれを違和感なく運んだのがキルミーベイベーである。キルミーは最終話の前からソーニャちゃんを心配するやすなの心情の微妙な変化を仕込んでいる。もちろんその解釈は原作の作風から外れた改変で賛否はある。『日常』はもう少し大胆に変えるか、そのような軸をつくらないかのどちらかでよかったのだろう。
話は変わるが、キャラデザや作画が今でも全く古びていないのは凄い。むしろユーフォニアムの方がすぐに古臭く感じられるのではないか。これは結局基本的な作画の統一と、あらゐけいいちの絵をアニメで再現できる力量に支えられていると思う。この絵が海外のどういう画風に似ているか等はわからない。今は角川は動画工房でアニメビジネスをやっているが、昔は京アニだったわけである。作画の強度は実際凄い。
一番秀逸で面白いエピソードは24話の笹原とみおの自販機シーンである。笹原自体がいいキャラなのだが、みおが落とした硬貨を自己本位で貰ったことにした結果自販機に罰を食らうという因果応報としての組み立てもよくできているし、間の取り方もよく、劇画的な顔の演出も程よく過剰でよい。