Quantcast
Channel: とーとろじいの計画
Viewing all articles
Browse latest Browse all 13

オタクについて

$
0
0

(仮? 改稿の可能性あり)

 

つまらない雑感なのだが記録しておくのも無駄ではない。

私の現状認識には進展がない。記録をするというのも言ってみれば降伏なのである。

 

以前、Twitterにて、通勤電車の車内で『とある』の(おそらく超電磁砲だったと思うが)曲を聴いているサラリーマンがいたという呟きが流れていた。親近感がわいたとかそんな趣旨の呟きだったと思う。もちろんTwitterでバズりやすい呟きの常として、過剰な表現(陽キャ的な文章)が見られたが、そうした内容が多くの人にRTされるという現象はオタクにとっての原風景というか、かつてネット空間にあった一体感の存在が示唆されているように思われる。

ゼロ年代後半のニコニコ動画や東方、ハルヒけいおん!らき☆すたコードギアス、とある、まどマギ等のオタクコンテンツは、その時期青春を送った人にとって無視できない何かであって、インターネットはそれにアクセスするための道具であり、個人的で、自分がそれを知っていることが恥ずかしく思われる何かであった。

私自身はまどマギ世代なので、ひぐらしハルヒがどういった場所で流行っていたのか、なぜ流行っていたと私は感じていたのか(つまり現実世界にどれほど「流出」していたのか)、その辺はぼんやりしている。それは学校のクラスの人たちの話や、電気屋やイオンのゲーム売り場などに流れていた(はみ出していた)のかもしれない。

私がインターネットを使うのは中学生からで、検索してはいけない言葉を検索したり、周りが東方をやっているのを見たり、ジョジョネタを知ったり、ニコニコでゲーム実況を見たりした。ニコニコ動画のガチャガチャが置かれてあって、隠されているものが現実に出てきていることにときめいたりした。私よりちょっと上の世代がニコニコ全盛期で、ドナルドやハレ晴れユカイを通過しているのだと思う。いずれにせよインターネットは「萌え」で、違法視聴がスタンダードなアナーキーな場所で、2chまとめサイトは教養を学ぶ教科書であった。

けいおんの曲がカウントダウンTVにランクインして盛り上がるのも、はみ出していくスリルがあったからだろう。自分たちの文化は陰キャで性的で公にするものではないのだが、そのくせ文化といえるぐらいには強靭なクオリティがその産物には宿っていると信じており、BadApple!の質や再生数を誇ったり鳥の詩が国歌になったりした。弾幕にも表れているように教養というものが厳然としてあり、「流行」で終わらせない保存意識も駆動していた。あるいは流行はマスメディアが作り出すもので、自分たちは普遍的で客観的な価値のあるものを愛好するのだという対抗意識である。

秘匿性から生まれる奇妙な一体感、カルチャーと呼べる共同性がかつてはあった。

今はアニメ産業が大きくなりすぎたし、オタクが”発見”しなくてもアニメの方でアピールしてくるし、まどマギステマと指摘し否認したような当時の主体=オタクはもういないのである。VTuberやソシャゲはそれぞれがインターネットを擬態し、時間と関心を奪い、評価する主体=オタクの解体を進めている。それは私たちの文化から生まれたのに私たち性をなくそうとする。インターネットやオタクという名称で表されていた中心はもうない。VTuber愛好者はニコニコに中心があると思い、切り抜きをニコニコに挙げる。それは虚しい徒労である。VTuberとはニコニコに中心がないという事実を教えてくれる名称でもあるのだ。そしてソシャゲは自分たちの中心が日本にもないことを教えてくれる。私たちの文化は実際偉大であったからこそ非同人化したのである。マスメディアに対抗して私たちが認めたものは、今やマスメディアの身体を持った。私たちではなくこの私は彼らから一方的に受信するだけでいい。価値化も彼らが代わりにやってくれるのである。

 

私の現状認識は悲観的だろうか。あるいはオタクとは元来仮象であって、何か自分たちに権限があると思い込んでただけの、要するに角川が作り出した現象でしかないのか。

 

付け加えると、例えば政治についてもオタクの中心があった。それは主に嫌韓思想で、アニメでサムゲタンを作るシーンは許されなかったし、韓国を嫌うことはオタクになるための条件だった。政治思想の統一まで要請する強いコードを持っていた。そんなアイデンティティはなくなってよしとも思えるが、自分たちが帰属していた大きな存在を忘れているのではと思えてならない。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 13

Trending Articles